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英雄列伝〜項羽と劉邦裏話編〜
どうも。古典の漢文の教科書に文句をつけ、その真相を暴いてやろうというコーナーです。(なんじゃそりゃ
まあ要は知識をさらけ出して、ほーそんなことがあったんだー、と思ってくだされば幸いです。
↑つまりネタバレです。注意。まあ特に知ったところでテストの点は上がりません。
まあ、まずいってみましょうか一つ目。
文系クラスというか古典B選択者なら(理系もかな?)もう鴻門之会は終わったと思われますが、そこでの裏話です。
沛公(=劉邦=後の高祖)が危なかった剣舞の場面。そこで項伯が翼蔽して沛公を守りますが、後にこの項伯という人物、劉邦軍に下っています。教科書にもあった垓下の一戦で四面楚歌になったとき、項羽(=項王)は最後まで戦い抜くという決心を固めますが、項伯は項氏の血を残すため、劉邦率いる(実際に率いたのは樊カイ、韓信ら配下ですけども)漢軍に降伏しています。確かその後劉姓をもらったんだったかな?(←あやしい
次に四面楚歌の部分。
虞美人という人が出てきましたよね。虞という人物、馬の騅と並んで項羽がもっとも大切にしたもの(人)のひとつです。その虞美人、項羽の唄う歌をともに唄った後、自ら項羽の剣を抜いて自害します。女がいては足手まといと考えたためといわれています。項羽は垓下に虞を葬りました。そこから雛罌粟の花(アグネスチャンのあれ)が咲きました。そこで虞美人草とも名づけられ、現在に至ったといわれています。
それから項王自刎の場面です。
まず、自らの馬を亭長に預けました。そこまでしか本文にはかかれてませんが、脚注(?)や後世に書かれた書物にはこうも記されてます。亭長は、騅を船に乗せ、江東へ逃げようとした。その途中、騅は江に身を躍らせ、自ら溺れ死んだといわれている。
烏騅はその昔まだ項王が天下をとる前にさかのぼる話だが、ある村の近くで暴れ馬がいて畑を荒らして困っているという話を聞きそこでなんと烏騅を見事に乗りこなしてその主となったというのが定説である。そこからずっと5年間付き従ってきた項羽と別れることはできなかったのであろう。同じような運命を三国時代の名馬、赤兎もたどっている。
同じく項王自刎の場面、最後に呂馬童、王エイに得をさせてやろうということで項羽は自ら首をはねた。と記されているがこの話には続きがある。項羽が死んだ、死体を劉邦のところに持っていったものが莫大な褒章を得る、さてあなたならどうする?死体がほしいだろう。事実、漢軍の兵士たちは項羽の死体を奪い合って同士討ちを始めた。その結果多くの兵士が死に、結局項羽の体は八つ裂きとなって四肢それぞれ、また頭を献じたものそれぞれが恩賞を得たのである。死した後も項羽は漢軍の兵士を殺したのである。
そして項羽の人となり(劉邦については教科書の後半部にあるので参照されたし)
鴻門之会の章で、項王人となり忍びずという部分があった。また授業でも項王は潔い人物だということもいわれているが、彼は一度に20万人もの降兵を殺している。原子爆弾よりもひどい数字である。
というのも、秦軍と戦ってる最中、彼は秦の将章邯の率いる軍隊を破り、将を捕虜とした。彼の率いていた大軍も捕虜となったが、反乱のそぶりが見え、また自軍より多い捕虜を抱えていることは不都合なため、夜を待って収容している陣を3方から奇襲し、谷に追い落として20万すべてを殺している。これは劉邦の項羽追撃の大義名分のひとつにもなっている。
また、項羽はある城を攻めていたが、ともに挙兵した叔父の項梁が殺された。項羽は秦を大いにうらみ、秦軍が撤退した跡でその城を攻め落としたが、その城に住む民を皆殺しにしたのである(!)秦軍を支援するものは許さないといった形で、彼は非常に残虐なところが多くあった。
ちなみにこれは直接は関係ないが、項羽は20万人の軍を皆殺しにしたが、さらにあるまじき暴挙をした将が過去にはいた。戦国時代、秦の白起将軍(=後世に名を残す名将)は趙軍と戦争をしていた。趙の大将も名将だったが、老齢のため更迭されて、若く戦場経験のない趙括が率いることになった(後世の馬謖のようなものである)。結局、趙括は約50万という国力の半分以上の大軍を頼りに秦の軍に突撃するが、これは結局白起の策で、兵糧を絶たれ、趙軍は大敗してしまう。ほとんどの兵が死ぬことなく降伏したが、白起はそのうち幼児の兵200名あまりを残し残りをすべて孔に埋めてしまったのである(!!!!!!)
古代は捕虜となればこのような運命が待ち構えているのである。恐ろしいものだ。
結構三国志、史記関係は専攻分野なので、「これってどうなの」っていうのがあったら聞いてくださいw
まあ要は知識をさらけ出して、ほーそんなことがあったんだー、と思ってくだされば幸いです。
↑つまりネタバレです。注意。まあ特に知ったところでテストの点は上がりません。
まあ、まずいってみましょうか一つ目。
文系クラスというか古典B選択者なら(理系もかな?)もう鴻門之会は終わったと思われますが、そこでの裏話です。
沛公(=劉邦=後の高祖)が危なかった剣舞の場面。そこで項伯が翼蔽して沛公を守りますが、後にこの項伯という人物、劉邦軍に下っています。教科書にもあった垓下の一戦で四面楚歌になったとき、項羽(=項王)は最後まで戦い抜くという決心を固めますが、項伯は項氏の血を残すため、劉邦率いる(実際に率いたのは樊カイ、韓信ら配下ですけども)漢軍に降伏しています。確かその後劉姓をもらったんだったかな?(←あやしい
次に四面楚歌の部分。
虞美人という人が出てきましたよね。虞という人物、馬の騅と並んで項羽がもっとも大切にしたもの(人)のひとつです。その虞美人、項羽の唄う歌をともに唄った後、自ら項羽の剣を抜いて自害します。女がいては足手まといと考えたためといわれています。項羽は垓下に虞を葬りました。そこから雛罌粟の花(アグネスチャンのあれ)が咲きました。そこで虞美人草とも名づけられ、現在に至ったといわれています。
それから項王自刎の場面です。
まず、自らの馬を亭長に預けました。そこまでしか本文にはかかれてませんが、脚注(?)や後世に書かれた書物にはこうも記されてます。亭長は、騅を船に乗せ、江東へ逃げようとした。その途中、騅は江に身を躍らせ、自ら溺れ死んだといわれている。
烏騅はその昔まだ項王が天下をとる前にさかのぼる話だが、ある村の近くで暴れ馬がいて畑を荒らして困っているという話を聞きそこでなんと烏騅を見事に乗りこなしてその主となったというのが定説である。そこからずっと5年間付き従ってきた項羽と別れることはできなかったのであろう。同じような運命を三国時代の名馬、赤兎もたどっている。
同じく項王自刎の場面、最後に呂馬童、王エイに得をさせてやろうということで項羽は自ら首をはねた。と記されているがこの話には続きがある。項羽が死んだ、死体を劉邦のところに持っていったものが莫大な褒章を得る、さてあなたならどうする?死体がほしいだろう。事実、漢軍の兵士たちは項羽の死体を奪い合って同士討ちを始めた。その結果多くの兵士が死に、結局項羽の体は八つ裂きとなって四肢それぞれ、また頭を献じたものそれぞれが恩賞を得たのである。死した後も項羽は漢軍の兵士を殺したのである。
そして項羽の人となり(劉邦については教科書の後半部にあるので参照されたし)
鴻門之会の章で、項王人となり忍びずという部分があった。また授業でも項王は潔い人物だということもいわれているが、彼は一度に20万人もの降兵を殺している。原子爆弾よりもひどい数字である。
というのも、秦軍と戦ってる最中、彼は秦の将章邯の率いる軍隊を破り、将を捕虜とした。彼の率いていた大軍も捕虜となったが、反乱のそぶりが見え、また自軍より多い捕虜を抱えていることは不都合なため、夜を待って収容している陣を3方から奇襲し、谷に追い落として20万すべてを殺している。これは劉邦の項羽追撃の大義名分のひとつにもなっている。
また、項羽はある城を攻めていたが、ともに挙兵した叔父の項梁が殺された。項羽は秦を大いにうらみ、秦軍が撤退した跡でその城を攻め落としたが、その城に住む民を皆殺しにしたのである(!)秦軍を支援するものは許さないといった形で、彼は非常に残虐なところが多くあった。
ちなみにこれは直接は関係ないが、項羽は20万人の軍を皆殺しにしたが、さらにあるまじき暴挙をした将が過去にはいた。戦国時代、秦の白起将軍(=後世に名を残す名将)は趙軍と戦争をしていた。趙の大将も名将だったが、老齢のため更迭されて、若く戦場経験のない趙括が率いることになった(後世の馬謖のようなものである)。結局、趙括は約50万という国力の半分以上の大軍を頼りに秦の軍に突撃するが、これは結局白起の策で、兵糧を絶たれ、趙軍は大敗してしまう。ほとんどの兵が死ぬことなく降伏したが、白起はそのうち幼児の兵200名あまりを残し残りをすべて孔に埋めてしまったのである(!!!!!!)
古代は捕虜となればこのような運命が待ち構えているのである。恐ろしいものだ。
結構三国志、史記関係は専攻分野なので、「これってどうなの」っていうのがあったら聞いてくださいw
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